一番最初の

この世界や家庭崩壊、現世にはさまざまな悲しいことがありますが、そのような言葉を詩にしてしまったら、打ち砕いた鏡の破片のように、ぐさぐさと心に突き刺さります。旋律が悲しいので、どこか夢をもたせてあげないといけません。

なんとなく、愛を求めて荒野を前向きにさまよう孤高な世界 と感じです。 

人は、無になることによって、魂を浄化させるのです。
職人の世界に入ることが、唯一の救いでした。まるで仏門の修行の道や、修道院に入るような気持ちで、クラシック業界に入りました。

生きてきた場所や環境は、全く、違うのかもしれませんし、もし、学生時代に知り合っていたら、接点がなくて、素通りだったのかもしれませんし、それに、そのときだったら、今のような技術がなかったので、あわなかったのかもしれません。

30代になってからの、他ジャンルの出会いは貴重です。不思議なことに、クラシック業界の世界の頂点の舞台を目指すときに、他ジャンルの出会いがありました。

なんだか私・・同時に苦しくなりました。
自分自身の過去を思い出すようで・・それにしても、作曲家兼ピアニストの方の旋律は、とても胸がいたみます。癒しの世界なのに、どこか悲しいです。
彼のこころを理解するには、彼の曲を歌うことです。

彼自身の孤高な世界には、踏み込めません。ただ、私は、芸術家として、なんとなく、その世界を理解して、その裏になる世界を表に伝えることはできて、  私は、それに翼をつけて、遠くに飛ばすことはできます。表と裏のバランスをとりつつ・・それから自分自身の過去や人生のことも話したくなってしまいます。

クラシック・・自分自身を制するもの
ある意味、無になって、技術を磨く作業は、魂を浄化させるもの

苦しみを訴えかけるのではなくて、そういうのをすべて、超越することによって、自分自身の業を振り切り、神の世界に近づくこと。高校時代、
そんな多感な高校時代、感性も人一倍、強く、疲れていました。曲がりがちな自分自身をまっすぐな線に戻すものが、クラシックの繰り返しの練習の世界でした。職人の世界に入ることです。

自分自身がどこにいったらいいのかわからない・・でも、とりあえず、100年も200年も残っている作曲家には永遠性があり、天の摂理が働いているだろうと・・その作曲家のいうことを聞いていれば、とりあえず、自分自身を間違えることはない・・


練習、何百年もの前の作曲家の解釈、技術を身につける徒弟社会は、ある意味、無味乾燥地帯で、それは、逆に、多感な自分自身を何も無い空の状態に、もっていくことができて、それによって魂は救われたような感じが致しました。

俗世界に疲れた人は、仏門をたたいたり、修道院に入ります。そして、決められた生活を送り、静かな時を過ごし、報われない魂を浄化させます。修行を積むことによって、神の愛を悟ります。

とにかく、その当時のクラシック業界は、唯一、自分自身が救われる業界のような気がしました。多少なりの幼児からの教育があったとしても、声楽は、まだまだ物心ついたときからでも間に合う楽器。実際に、声楽家が一番、楽器の中で育つのが遅いのですね。たぶん、今の私の心をまっすぐの線に戻していたものが、クラシック業界だと思いますし。。

とめどもない、自分との会話ですね。